今さら「輪るピングドラム」を観た感想徒然 ー"物語"から"応答"へー

輪るピングドラムの感想を徒然なるままに書く。
ネタバレありなので観てない方はお帰りください。

 

 

大学の同期から勧められていて、前から気になってはいた。

最近お気に入りのOculus Goをつけ、ベッドに寝転んでAmazon Prime Videoのアニメ一覧をザッピングしていたところ、Prime会員向けに公開されているのを発見した。
休憩がてらに1話だけ見てみるかと「今すぐ観る」をクリックし、そのままの勢いで24話まで全部観てしまった。

 

今は最終話を見終えた直後で、大泣きし、呆然としている。

なぜ公開年に観なかったのか、と反省すると共に、でもこのタイミングで観たからこそ、これだけこの作品について考えることができたのだろう、とも思う。

それだけ、この作品のテーマは、今の自分の問題意識にヒットしていた。

 

革命から生存戦略へ。

生き残るために、たとえ血縁のつながりがなくても、「家族」を作ること。

家族になるために、運命によって与えられた呪いを共有し、分かち合っていくこと。

 

 

 

1995年のオウムによる「社会変革」は失敗した。2010年代の私たちは、「社会に立ち向かうことで、自分たちが生きやすい社会に変えることができる」という物語をもはや信じていない。

代わりに、私たちが関心を持つようになったのは、社会の中に、小さくても、ささやかでも、自分たちが生き残ることができる居場所を確保することだ。 それが、私たちの「生存戦略」だ。

 

本作では(疑似家族も含めた)「家族」がその場所として描かれている。

ゲンロン0で、東浩紀が「観光客」の連帯原理の有力な候補として「家族」を挙げていたけれど、本作の主人公の家族は、まさにこのような連帯の一例を描いたものなのでは?と個人的には感じた。

 

20話「選んでくれてありがとう」の陽毬の「この世界は選ばれるか選ばれないか、選ばれないことは死ぬこと」という台詞は個人的にダメージが大きかった。

もし現実の知り合いにそんなこと言われたら、「考えすぎじゃない?」と返す。しかし、陽毬は13歳になった時点でも、素直にそう思って生きているのではないか。

彼女があれだけ家族を大事にしているのは、自分が家族の一員として「選ばれた」ことで命を救われたからで、彼女のあの家族に対する献身的なまでの優しさを支えているのは、「選ばれないことは死ぬことだ」という信念なのではないか。陽毬の家族愛を僕は美しいと感じてしまうし、そうなると、「選ばれないことは死ぬことだ」という彼女の信念も批判しきなれなくなってしまった。

物心つく前の子供にとって、「選ばれないことは死ぬこと」という言葉は、彼らが生きている現実そのものなのかもしれない。陽毬にとって、現実とは"こどもブロイラー"と隣合わせの世界だ。

タイトルの「選んでくれてありがとう」という言葉を見ると涙が出そうになる。陽毬の美しい家族愛は晶馬や冠葉の生きる希望だったに違いない。だが、陽毬が晶馬に家族として選ばれたのはある種の偶然であり、その裏にはたくさんの選ばれなかった子供と"こどもブロイラー"の存在がある。

陽毬ほどその現実を達観して受け入れている3歳児は普通いないと思うけれど、それでも、あの世界から"こどもブロイラー"が失くなった時、陽毬、晶馬、冠葉の三人は家族でいられるのだろうか・・・?

 

 

メルロ・ポンティによれば、私たちは自由意志を持つ以前に、「応答する存在」として存在している。違う言い方をすれば、能動的な存在ではなく、中動態的な存在として生きている。

陽毬が持つ家族愛も、冠葉が持つ陽毬への愛も、自由意志による能動的な愛というよりも、自分に愛を与えてくれた人々への「応答」ではないのか? 言うなれば、陽毬の"家族への気づかい"は、家族として"選ばれた"ことをきっかけとする一連の行為であり、本作の言葉を借りるのであれば、「運命」なのだ。

大きな物語の失われた世界において、人間の行為が意味を持つのは、それが何らかの呼びかけに対する応答だからだ(そうじゃない例もあると思うけど)。

罪に対する罰。愛に対する感謝。愛されなかったことに対する復讐。

それは「運命」として知覚される。わざわざ「運命」なんて大仰な言葉を使うのは、大きな物語を失った世界において、プリミティブな意味間の関連を誇張しないと物語として成立しないという事でもあるだろうし、そういう単純な応答がもっとも説得力を持つ時代になっているということもあるだろう。ただ、この作品では、「愛された」「愛されなかった」という過去に対するシンプルな応答性こそが、主要な登場人物たちの基本的な行動原理になっている。そこから逃れられるキャラは一握りしかいなかった。

 

1995年以降、僕らは、自分と無関係なところで作られた「物語」に説得力を感じられなくなった。そして、自分の身に起こったことへの「応答」としてしか、自分の行為に意味を持たせられない時代に生きているのではないのか。

 

 

その意味でいうと、晶馬と苹果の物語が一番印象に残った。

苹果は物語の前半と後半で、「応答」する対象が全く異なっている。苹果は想像力が豊かで、妄想じみた物語を自分で構築し、それにしたがってパワフルに邁進する。

前半では、自分を愛してくれなかった家族に対して、家族の愛を掴み取るために、「運命」を設定し、それを実現しようとする。しかし、後半では、ほとんど家族との絡みは出てこ図、自分を守ってくれた晶馬に対する関わりが登場シーンのほとんどを占める。

「運命の乗り換え」という言葉について考える時、真っ先に浮かぶのは苹果のことだ。晶馬にとって、苹果は理解不能な「オカルトサイコ娘」であったにも関わらず、晶馬は身を呈して苹果をかばった。あの時、苹果は運命をねじ曲げられたのだ。

助けられたあと、苹果が晶馬に八つ当たり(?)するシーンがあるが、苹果にとって日記が示す「運命」は救われるための道しるべだった。晶馬は苹果が信じていた救いの物語をぶちこわし、その上で苹果の新しい「応答性」を引き出したのだ。

 

晶馬は、苹果に振り回されてはいるが、苹果の要望に唯々諾々と従うだけの存在ではなかった。苹果自身にとってよくないと思ったことははっきりと言うし、いざという時には自分の身を犠牲にしてでも苹果を守ることを行為として証明している。

しばしば看護や臨床心理でも言われることだが、相手の顕在的な「ニーズ」に答えるだけでは、対人支援は成立しない。「相手以上に相手のことを考えていること」を示すことで、初めて「あなたの人生をもっとよくするために協力しましょう」という信頼関係を築くことができる。

 

 

いきなり別作品の話を挟んで申し訳ないが、アニメ「Re:ゼロ」のレムの告白シーンの話がしたい。(見てない人は次の*まで飛ばしてください)

 

僕はあのシーンがめちゃめちゃ好きなのだが、あの告白シーンの真髄は、度重なる失敗で絶望に陥った「自分のことは、自分が一番よく分かってる」って叫ぶスバルの意見をレムが「レムが見ているスバルくんのことを、スバルくんがどれだけ知っているんですか?」と否定するところだと思っている。

 

「自分から見たあなた」を押し付けることは、ポリティカルコレクト的に非常にリスクのある行為だ。例えば、女の子しか好きになれない娘に対して、母親が「大丈夫、私には分かってるわ、あなたは本当は●●な男の人が好きなのよ」などと発言して、娘の意見を無視しようとすれば、当然批判の対象に合うだろう。

 

だが、あの「スバルくんの自己像の否定」こそがきっかけとなって、無力感に苛まれていたスバルくんはは復活する。そのあとのスバルくんの行為は、レムからの期待によって動機づけられている。

 

 

特定の対象との「応答」(例えば、自分を愛してくれなかった世界に対する復讐とか)の中に囚われてしまった時、そこから連れ出してくれるのは、いつだって、個人の自由の領域にまで「踏み込んで」くる人間なのかもしれない。その出会いは、ゲンロン0で出てくる「誤配」のような、ルールから逸脱した偶然のような出会いで、かつどこか必然的なものなのによってもたらされる。

 

物心もつかない子供の「生存戦略」と、すでに自分で考えることができる青年・中年の「生存戦略」は異なるだろう。

子供にとっては、自分を育ててくれる人に選ばれることが必須かもしれないが、経済的に自立した社会人にとって大事な「生存戦略」は、必ずしも「家族」ではないと思う。

大事なことは「応答する存在」として生きられる場所を確保することではないのか。「愛」という解しか認めないのは、あまりに視野が狭い。愛は大事かもしれないが、もっと広い「応答性」の選択肢の中から、自らが生きる意味を得ていくことではないか、と思う。

(大女優になっても、桃果に執着しているゆりは、ちょっと大人としてどうなのか、と思う)

 

たしかに、古典的な理想の家庭において、親から与えられるとされる無償の愛は、その「応答」が始まるきっかけになる。しかし、親が、社会が自分たちに与えてくれたものへの返礼として、社会に奉公し、一生を終える、というのは現代のモチベーション設計として可能なのか。

 

人間は「応答する存在」だという。だとすれば、私たちの行為は、実はなんらかの働きかけにたいする「応答」でしかない。それゆえ、私たちの人生は、自分が生まれた時に贈られたものによって運命付けられている。

しかし、親の愛を獲得するため、運命に従い、多蕗先生を襲おうとする苹果を呼びとめたのは、他人である晶馬だった。作中ではほぼ無視されているけれど、本当は、私たちは、応答する対象を選ぶ事ができる。自分が誰の「呼びかけ」に応えるのか、選択する自由を持っている。自分を選んでくれる相手は限られているかもしれないけれど、確かに存在する。ちゃんと耳を傾けさえすれば、私たちに「呼びかけて」くれる人は、現実でもネット上でもたくさんいる時代だと思う。

そして、私たちは、ゆりと多蕗先生が桃果の喪失を分かち合ったように、他人の呪いや負債を分かち合うこともできる。画面の奥の陽毬の境遇に私がうちひしがれてしまったように、他人のつらさに共感することもできる。親との関係に縛られずとも、「応答先」は、他の対象との関係に広げていけるのではないか。

 

 

別に輪るピングドラム自体がそういうテーマを持っていた訳ではないと思うのだけど、見終わってから、ずっと「応答する存在」として生きていくことについて考えている。それがこの時代の世界観なんじゃないのか、という気がしているのだ。

 

プロダクト開発の二つの戦略:「ソリューションありき」と「ビジョンありき」

takk!やメンヘラ.jpの居場所データベースなどのWebサービス開発に関わって思ったこと。

 

今まで僕は、プロダクトを世の中に広げていくためには、まず小さな成功例を生み出し、それが周囲の人に評価されていくことで広まっていく、という流れを辿ることが必要だと思っていた。

 

だが、最近のWebサービス開発の動向を見るに、前述のような「ソリューションありき」のプロダクト開発の手法よりも、「ビジョンありき」のプロダクト開発の手法の方が、ユーザニーズに関する情報や人的リソースを集めやすいし、結果的に上手くいきやすいのでは?という気がしてきている。

 

「ソリューションありき」のプロダクト開発

「ソリューションありき」のプロダクト開発のやり方としては、自動車メーカーのホンダの創業はまさにその例だ。

 

www.70seeds.jp

 

休養期間の間に、本田さんは終戦後放置されていた陸軍の無線機を動かすためのエンジンを何かに使えないかと考えます。ある時、奥さんが大変な思いをして、自転車で遠くまで買出しに行く姿を見て、自転車の補助動力として使うことを考え出します。

 

最初は本田さんの奥さんがテストライダーとして、このエンジン付き自転車に乗っていたそうなのですが、それを見た人が次々と本田さんのもとを訪れ、ぜひ改造エンジンを売ってほしいと頼み込んだそうです。

 

この改造エンジンは非常に好評となりまして、本田さんは浜松の地に本田技術研究所を設立し、事業としてエンジンの加工に取り組むことになります。しかし、 非常によく売れてしまったため、改造元だった軍用の発電エンジンが底を尽きてしまいました。そこで、本田さんは自ら自転車用エンジンの設計に取り組む事に なります。こうして本田さんが一から設計し、誕生したのが「A型エンジン」になります。

 

 奥さんの課題を解決したプロダクトは、同じ課題を持つ他の人にも支持されるようになった。身近な人の身近な課題を解決するソリューションを生み出し、それを横展開していく。エンジニアとしては非常に馴染みのよいストーリーだ。

 

「ビジョンありき」のプロダクト開発

終戦時は多くの人が「移動が大変」という困りごとを持っていただろう。しかし、現代において、多くの人が感じている明確なニーズ、というのはなかなか無くなってきている。

 

Webサービスは「限られた界隈のユーザが熱狂的に支持する」プロダクトを作ることを目標に据えることが多いが、そういうニーズの多くはかなり文脈依存的であり、ニーズの詳細を掴むことの負荷がけっこう高い。そのため、まずはそのプロダクトを支持してくれるユーザ層を捕まえることが至上命題だったりする。

 

そういう背景もあってか、「ビジョンありき」のプロダクト開発の手順はエンジニアとしても非常にやりやすいなと感じた。具体的には、

 

1. 目指す世界観(=ビジョン)を記事として書き、

2. それを多くの人に伝えて共感してもらい、

3. 支持してくれるユーザを集めた上で、

4. その世界観を実現するためのソリューションを磨き込んでいく、

という手順になる。

この記事を読む方が伝わると思うが)

 

メンヘラ.jpのクラウドファンディングはその良い例だろう。

 

camp-fire.jp

 

精神の問題を抱える当事者たちにとって、最大の問題のひとつが「孤立」です。 孤立から脱しリアルコミュニティへ繋がるために、全国の自助グループや支援者団体のデータベースを作りたい。 ネットからリアルへ、「つながり」を築ける仕組み作りを目指します。

 

当然だが、クラウドファンディングをやっている段階において、居場所データベースはプロダクトとしては存在していない。身近な誰かの課題が解決されているわけではない。だが、エモさの高い記事を発信することで、400万円近い資金を集めた。その資金を元に開発を進め、現在では居場所データベースは稼働を始めており、少しずつ登録イベントが増えてきている。

事前に注目を集められたため、使い勝手に関する意見も早いスピードで集まっており、改善も早く進められそうだ。

 

 

takk!も同様で、プロダクトの目指す世界観をメッセージとして打ち出したnoteの記事がNPO運営者などの界隈に広まり、その影響でユーザが急増した。

 

note.mu

 

マーケットプレースの場合、初期は登録者数が少ないので、マッチングもなかなか生まれにくく、そのためにユーザ数もなかなか増えない、という「鶏か卵か」のジレンマがある。

このジレンマを乗り越えるために、最初は個人営業をかけて出品者を一人一人地道に増やしていくマーケットプレースのサービスも多いと聞くが、takkは個人営業をほぼすることなく、多くの出品者に登録してもらうことができた。出品までのUXの簡易さと、世界観に共感してくれたユーザが多くいたことが要因だと考えている。

 

 

とはいえ、開発していると、「ビジョンありき」戦略だからこその苦労もある。

特に難しいなと感じるのが、「機能」に対する考え方だ。

 

今までは、ユーザのやりたいことを聞いて、それを実現できる機能を追加していけば良いと思っていた。ユーザにはやりたいことがあるが手段がない。ならばその手段を提供すれば使ってくれるだろう、という発想だ。

 

しかし、「ビジョンありき」戦略の場合、サービスを支持してくれているユーザの多くは「機能」ではなく「世界観」を支持してくれている。ユーザは機能を求めてこのWebサービスに集まっているのではなく、その世界観に近づくための提案を求めて集まっているのだ。

だからこそ、サービス運営側は、新しい機能を出すだけではなく、「その機能を通してユーザに何をして欲しいのか」と「その行動が、なぜ私たちの目指す世界観の実現につながるか」を、分かりやすく共感しやすいメッセージにして、ユーザに対して発信しつづけないといけない。「ビジョンありき」戦略によって支持を獲得したユーザに対しては、"サイトが提供しているそれぞれのアクションは、私たちの目指している世界観を実現するためのソリューションなのだ"ということを常に説得しつづける必要があるということなのだと思う。機能ではなく世界観を支持してもらっている以上、運営側は遠くのビジョンと手元の機能をつなぐ物語を提供しつづけないといけないのだ。

 

なんにせよ、自分が前提としてきたことがひっくり返る経験がなんどもあって面白い。まだまだ若輩であるが、面白い経験を積み重ねながら頑張りたいと思う。

メンタルヘルスは本格的に「ユーザニーズの時代」に入ろうとしている

自己紹介

・メンヘラ.jpと協力関係にある「メンヘラ当事者研究会」という団体の発起人

・メンヘラ.jpの運営にも少しだけ関わってる

・アカデミック(東京大学医学部健康総合科学科(=看護学部)学部卒)と、Webビジネス(現在Webベンチャー企業勤務一年目)の両方の立場につま先だけ突っ込んでる

 

内容の要約

複素数太郎氏と議論したんだけど、”文化”とか社会運動とか革命とか言われても全然ピンとこなかった

Webサービス開発に関わってると、自分たちのための小さなコミュニティが爆速&低コストで作れるので、わざわざ社会とかの大きなコミュニティに訴えかけるよりも、自分たちのニーズに合ったコミュニティを2ヶ月くらいでさっさと作っちまうほうが早い、という感覚になる

・大きなコミュニティが支持する”文化”によって個人個人の自由が狭められるなんて世界観は終わりにした方がいいので、メンヘラ.jpの”文化”を批判するよりも、みんなどんどん色んなコミュニティを作ろう

 

この記事を書いた経緯

少し前にTwitterが「反治療文化」の話題で盛り上がっていた時に、複素数太郎氏に自分の意見をblogで書くと言ったものの、

気がついたら終結宣言が出ており、書き溜めた文章が行き場を失ったので少しテーマを変えて供養したい。

 

先のテーマで、複素数太郎氏と少しだけ議論したんだけど、

複素数太郎氏の意見を聞いていると、僕の中のアカデミックの頭は「確かにすげぇ大事なことを言っている」と思う一方で、

僕のWebビジネスの方の頭は「それ、どうでもよくね?」という意見を発し続けていた。

 

ちなみに、複素数太郎氏に伝えた僕の意見は、「治療文化を支持するか反治療文化を支持するかは、社会とか学者とかが決めることじゃなくて、ユーザ一人一人が決めるべきで、治療文化VS反治療文化のどっちが正しいか、社会がどうなるかなんてどーでもいい。諸々のサービスを利用する一人のユーザとしては、治療が欲しくなった時には治療が受けたいし、そうじゃないときに治療を強制されたくない、というだけの話だと思う。」というもの。

 

これに対して複素数太郎氏からは、

「反治療文化こそが、あなたの言う”ユーザ一人一人が自由に選択肢を選べる状況”を実現するための方法なんだ」という趣旨の反論をもらった。

 

その後も少し議論したんだけど、おそらく僕と彼の違いは、

複素数太郎氏は、大きなコミュニティが「治療文化」に染まると、その中で治療以外の選択肢を選べない人が出てくる、という危機感があるんだけど、

僕は「治療文化」に染まったコミュニティが一つ二つあったところで大した影響力はなくて、ユーザは自分のニーズに合わせて好きなコミュニティを選ぶだろうと楽観的に考えているところにあるんだと思った。

 

この違いがなぜ生まれたのかを考えてみたんだけど、

僕がWebサービスを作る人のことを少し知っていたからじゃないか、と思った。

 

なので、メンタルヘルスに関わる人たちに向けて、

Webサービスを作る人たちが何を考えているのか、ということを書いてみたい。

 

Webサービス世界

比喩による説明だけど、Webサービスの人の考え方を知りたい人には、この記事がめちゃめちゃわかりやすいと思う。

note.mu

 

要するに、「ユーザの支持を集める”旗”」さえあれば、人が集まり、場が栄える、というのがWebサービスの人の考え方だ。

実際、メンヘラ.jpの発起人はは金も技術もないわかり手さんだけど、

読者が記事を投稿し、僕のような勝手に手伝う人が現れ、サイトは拡大できている。

 

対して、ユーザの支持を集められない場所は、どんどん寂れて消えていってしまう。

 

Webサービスが発展するかどうかは技術力やお金よりも、どれだけ多くのユーザからの支持を集められるかにかかっている。

逆に言えば、多くのユーザから膨大な支持が集められそうなサービスがあるなら、

どれだけ技術力や元手がなくてもWebサービスは作れてしまうものだ、という感覚だ。

 

Webサービス開発者なら常識的なことだが、プロダクトというものは強い思想に基づいて作られるべきものだ。Appleがわかりやすいけど、強い思想に基づいてシンプルに作られたプロダクトほど、美しく、使いやすく、ユーザにとって高い価値を提供できるからだ。そのプロダクトが解決するニーズが絞り込まれているほど、プロダクトはユーザのニーズに的確に答えることができる。

 

個人的には、あるWebサービスに対して「一部のユーザのニーズを切り落としている」という批判が

倫理的な議論として盛り上がること自体がすげー謎な状況だなと思っている。

治療という選択肢を支援するコミュニティも必要だし、それ以外の選択肢を支援するコミュニティも必要なのだ。

ユーザは自分のニーズが合わない時は他のWebサービスを使えばいい。いちいち運営者に文句を言う必要はない。

(もちろん改善要望を出してくれるのはサイトの運営側としてはありがたいのだが)

 

だから、「反治療文化」論争の諸悪の根源は、「メンヘラ向けの使いやすいWebサービスの数が少ない」という一点に尽きる。

それぞれの思想を体現したWebサービスがいっぱい生まれてきて、一人一人のユーザが自分の思想に合ったサービスを使う、というのがもっとも美しい姿だと思う。

 

Webサービスは日々「ニッチ化」を続けている

 

今どれだけWebサービスが生まれているのかを知りたい人は、例えばこのサイトを見て欲しい。

www.service-safari.com

 

Service SafariはリリースされたばかりのWebサービスを紹介するサイトなのだが、これを見ていると、よくもまあそんなニッチなニーズに合わせたサービスが次々と生まれていくもんだ、と感心する。

 

個人的にツボだったのが「マッチョる」というサービス。

www.service-safari.com

 

マッチョ男子とマッチョ好き女子をマッチングするらしい。

男女のマッチングサービスは無数に生まれているが、その結果、こういうニッチを狙いにいくサービスが登場している。

 

メンタルヘルスは本格的に「ユーザニーズの時代」に入ろうとしている

おそらく、メンタルヘルスもこの流れに沿って進んでいく。

学術的に正しいかどうかなんて関係ない。「多くのユーザのニーズに応えられるサービス」「多くのユーザに支持されるサービス」が広がっていき、どんどんニッチなニーズにまで覆っていく。

 

2017年11月くらいから、キーワード「死にたい」で検索すると、Webメディアの記事がたくさんヒットするようになった。多分座間市の事件が関係あると思うが、跡を追うように様々なWebメディアのライターが、「死にたい」人向けの読みやすい記事を書いているのだ。

「つらい」「しんどい」などのワードも、多くのメディアが検索上位を取り合っている。検索ボリュームさえあればWeb記事は増えていくからだ。

 

この先の時代、ニーズさえあればサービスは生まれていくだろう。それはコンテンツの提供者と消費者の両方が支持する動きなので、そう簡単には止めようがない。

今まで"メンヘラ"はマイジョリティではなかったので、自分たちに合わせたサービスが現れるということに慣れていないかもしれないが、それは時間の問題に過ぎない。これから、あらゆる分野のニッチなニーズに対して、Webサービスが乗り込んでくる。

 

メンヘラ.jpという「町」は、支持してくれるユーザと共に、今後も発展していくだろう。

だが、別にあなたがその町に居続ける必要などないのだ。その町が居心地が悪くなったなら、他の"旗"を立てようとしている誰かを探せばいい。あなたがその"旗"を支持することによって、そこにまた別の町が生まれるはずだからだ。

 

「生ける屍の結末――「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相」感想

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読んだ。

 

一時期ネット上で有名になった、「黒子のバスケ」脅迫事件の本。

事件の経緯と、事件を起こした動機について犯人が語る。

 

やはり、犯人による最終陳述は圧巻。

「生ける屍」「努力教信者」「浮遊霊」などの独特の言葉遣いで、犯人が、自らの犯行の動機を「分析」していく。

  

 

彼自身は、すごく「分かってもらいたい」人なのだと思う。

彼自身の中に、「自分は周りからこう見られているハズだ」という硬直したイメージがある。そして、そのイメージ通りに、自分のことを見てほしいと思っているのではないだろうか。

と、いうよりも、心の表面では「誰も俺のことを理解なんてしてくれないのだ」と、他人に対して裏切られた気持ちでいっぱいなのだけれど、心の奥底では、誰かに自分のことを、生まれから、自分のやろうとしたことまで、丸ごと全部理解してほしいという願いが捨てきれないのだろう、と思った。

 だからこそ、というべきなのか。彼が自分に向ける「分析」の目は、深く、幅広い。彼の心の中に在る要素を、徹底的に分析しようとする。

 

 

さて、この本は色々な読み方ができるんだけど、

僕は「"意欲を持つこと"は自己責任なのか」を渡辺氏が世に問おうとした本だと感じた。

 

「よっひー」さんが『意欲に関する差別』という記事を書いていて、これがすごく参考になったので、引用する。

 

ameblo.jp

 

 前に言ったことのまんま繰り返しなんだけど、この世に存在する最も深刻で根の深い差別は「意欲に関する差別」だ。
 経済格差や障害の有る無しはしょうがない、という人も、意欲や志はどんな人間でも備えられるはずで、意欲や志を持たない人間を差別するのは、正義だし善だと考えている。
 もっと簡単に言うと、どんなに貧乏でも、障害があっても、過去にトラウマを抱えていても、「努力」と「意欲」だけは持てるはずで、意欲を持たず努力をしない人間だけは地を這わせ泥を啜らせてもかまわない、と、多くの人が平然と思っている。
 もちろんそんな常識は間違っている。

 

黒子のバスケ」事件の最終陳述で、渡辺氏が「努力教信者」という言葉で批判しようとしている考え方は、まさにこれだろう。彼の言う「努力教信者」とは「努力すれば報われる可能性がある」という前提を持てている人のことだ。「信者」という言葉遣いの裏には、無反省にこの前提を信じている人々への反感があるのだろう。

 渡辺氏は、「やりたいと思えることがなかった」「努力できなかった」ということに悩んでいる。彼は、最終意見陳述の冒頭で、「自分は夢なんか持っていない!まともに夢すら持てなかったんだ!」という事実を思い出した、と語る。彼が熱中できたことは、唯一、一連の黒子のバスケ事件だけだった。

 

「夢すら持てなかった」という語りは、あまり悲痛だ。

彼自身は明確にそう書いてはいないが、渡辺氏自身が、誰よりもこの「努力教信者」の考え方に毒されているように感じる。以下、引用。

「埒外の民」は「自分がどうしようもない怠け者だったから負け組になった」という自己物語を形成します。

彼は、まさに「自分はどうしようもない怠け者だ」とずっと思いながら生きてきたのではないだろうか。だからこそ、夢を持てるということ、何かに熱中できるということへの強い羨望が彼の中にはある。

新しい検事さんによる最初の取り調べで、「あなたの人生は不戦敗の人生ですね。それがつらかったのでしょう」と言われました。自分はその一言がきっかけで気が付いたのです。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったわけではないのです。この世の大多数を占める「夢を持って努力できた普通の人たち」が羨ましかったのです。自分は「夢を持って努力できた普通の人たち」の代表として、「黒子のバスケ」の作者氏を標的にしたのです。

自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功を見て、「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が嘘であり、自分は負け組ですらないという事実を突きつけられたような気がしたのです。キーワードはバスケと上智大学でした。この二つは、自分が無意識に自分ができなかった努力の象徴となっていました。

彼は、藤巻先生の「成功」を妬んではいない。藤巻先生の「部活に入ったり、中学の同級生から感化を受けてマンガを描き始めたり、ちゃんとした浪人生活を送ったり、大学でも部活に入ったり、やりたいことのために大学をさらりと退学して親元から自立してチャレンジしたり」という経歴に対しては、明確な敵意を持っている。藤巻先生は、渡辺氏の言う「努力」を実行してきた人物であり、渡辺氏は、そのような「努力」ができる状況から疎外されてきた人生だった。この格差こそ、渡辺氏が憤っているものの正体だ。彼自身、努力するかどうかが人間の価値を決める、という価値観に冒されている。だからこそ、理不尽にも、生まれついた時の環境で「努力できるかどうかが決まってしまう」ことが、彼にとっては許せないのだろう。

 

さて、渡辺氏の憤りのエネルギーは、大きく2つの方向に向かう。

1つは、「努力教」の価値観を批判すること。もう1つは、自分を「努力」できない状況に追い込んだ家庭環境や社会を批判することだ。

個人的には前者の方向性の方がよほど「救い」はあるだろうと思うんだけど(要するに、努力できたかどうか以外にも人間の価値はある、と考え直せればいいわけだ)、彼の語りは、後者の方向性を深める形に進んでいった。

 

 彼の語り方は、どこか淡々としている。彼は自分のことを他人事のような突き放した口調で語るのだけど、使われる単語一つ一つは、強く彼の世界観が滲み出している。このアンバランスさが、彼の文章をインパクトのある文章にしていると思う。

 で、彼はこの第三者的な語り口で、「環境が自分をこのような人間にしていくまで」の過程を語っていく。

 彼は、「社会的存在⇔生ける屍」「努力教信者⇔埒外の民」「キズナマン⇔浮遊霊」という3組の対義語と、「生霊」という言葉を定義する。彼のロジックを要約すると、

・家庭環境のせいで、自分は「生ける屍」になってしまった。

・「生ける屍」である自分が「埒外の民」になってしまうのは必然

・「生ける屍」である自分は、安心を持っておらず、またその特殊な家庭環境のために「浮遊霊」になってしまった。

・「浮遊霊」である自分が、社会とつながるために強引に仮設した"3本の糸"が切られてしまった。この時「埒外の民」でもある自分は、偶然が重なって「生霊」になってしまった。

ということになる。

ポイントは、どの流れも、彼の意志の介在しない出来事として描かれていることだ。この経緯は、どれも「~なってしまう」という口調で語られているように思える。

 

この本の帯に書かれている感想に、「どこで何を間違えたのか。どうしようもなかったのか」というコメントが書かれているが、このような感想を覚えるのは、彼の一つ一つのロジックの説得力だけでなく、彼のこの語り口によるものが大きいと思う。彼の語りがどこか「客観的」に自分を見つめ直しているものであるだけに、渡辺氏の陳述を読むと、私たちは、自分も同じ立場に置かれていたら、きっと同じ道をたどっていたのではないかと思わされる。私たちは、渡辺氏の「人生」に深く同情してしまうのだ。

 

 

一旦書き疲れたので、ここで今日は終わり。

また書く。 

 

「サクラ荘」など、京都のシェアハウス事情を見てきた。

就職前の春休みを活用して、

前から見に行きたかった「サクラ荘」の様子を見てきた。

 

僕は、前から「居場所づくり活動」とか「サードプレース」の活動に興味があった。

誰でも当事者研究会の活動も、その一環としてやっていたのだけど、

この活動が、居場所として機能しているとは言い難いし、

働きながら続けられる活動はないかなと思っていた。

 

サクラ荘は、友人(というのも恥ずかしいけれども)のホリィセンがやっているシェアハウス。

ホリィセンとはお互いに「目指してる方向性が似ている」と言い合っている仲なので、ホリィセンが熱心に活動していることなら、きっと僕がやりたいことを考える上でも参考になるはずだ、という思いもあった。

 

感じたことをいくつかメモ書き。

 

1.オープンシェアハウスという形式:ほどほどに不親切な空間設計 

到着するまで、「オープンシェアハウス」というものについて、全く知らなかったのだけど、

個人の部屋があるエリアへの侵入は禁止されているものの、常にリビングが開放されていて、人が自由に入れる形になっていた。

学森舎というオープンシェアハウスにも連れて行ってもらえたのだけど、ここも同様の造り。

冷蔵庫や壁などに注意書きが貼られている以外の情報周知はなし。この「ほどほどに不親切な空間設計」が、知らない人間が自由に入ってこれる場所としてのオープンシェアハウスを成り立たせているのだろうと感じた。

知り合いから情報を聞いてくるとか、住人から各設備の使い方を聞くとか、ある程度のコミュニケーションを取らないと、なんとなく入りづらいし、その場に居づらい。なんとなく人を寄せ付けない空気の空間に対して、自らコミュニケーションをしかけていくことで、やっとそこに馴染める感じ。

 

2.京大文化の影響:事なかれ主義に陥らない

 サクラ荘の運営の代表者?は京大の人間が多いわけだけど、京大は、東大と比べて、衝突が起こることを恐れずに戦ったりコミュニケーションを取ろうとする文化が強いと感じた。京大はいつもいつも政治的な問題が置きまくっているし、学生の中に、それを(生温かい目線であっても)応援する気風があるように感じる。吉田寮熊野寮の活動を見ていても、会議や討論を通じて物事を決めていく文化があるように思える。

 それと比べると、東大はやっぱり「事なかれ主義」が強い。

 

 オープンシェアハウスという活動自体、事なかれ主義者からすると、とても安心していられない環境だと思う。

 一人一人が各自の家で住む方が、間違いなく日々起こる問題の量は少なくなる。風呂や流し台を共有するにしても、使い方や使う時間を明確に決めた方が小競り合いは減る。まして、外部の人が自由に入ってくるとなれば、問題は加速度的に増えていくのでは、と思う人もいるだろう。

 

 小さな衝突を恐れず、コミュニケーションの中で解決していかないと共同生活は成り立たないように思うのだけど、それに慣れているかどうかは文化の影響が強い気がする。

 

 あと、小さい事だけど、ビラや文字による情報伝達の文化があるのも違うと思う。

 京大構内の中で、結構な数の「文字だけのビラ」や「壁に直接文字を書いた注意書き」を見かけたけど、シェアハウス運営における情報伝達では、こういう情報伝達手段が役立っているように思えた。これらの方法は、情報伝達にかける手間が少なくて済むし、コストが下がればそれだけコミュニケーションが速く、多くなる。「現代的でキレイなレイアウト」にこだわらない情報伝達手段があるのは大事だ。

 

3.人間関係のネットワーク

 当然すぎるっちゃ当然なんだけど、シェアハウス運営で必要なのは人間同士の(互恵的な)ネットワークなんだなと感じた。

 お金の面にしても、トラブル対処にしても、イベントの運営にしても、人と人のネットワークが不可欠な要素になっている。

 住人同士の人間関係だけの話ではない。サクラ荘の場合は、住人以外にも、「運営者」と呼ばれる人々がいて、サクラ荘の背景には、膨大な人数の人間のネットワークがあって、今住んでいる人が占めている割合はその中の一部なのだ。そのシェアハウスをしばしば訪れる人、住人の友人、かつて住んでいた人、近くに住んでいる人、次に住むことを考えている人、他のシェアハウスの人、などなど。退去者が出た時、人間関係のトラブルが起きた時、お金の問題が起きた時など、あらゆる場面で、これらの人と人のネットワークが機能している。

 

 今まで、シェアハウスを作ることとは、「全く見ず知らずの人同士が、ひとつの場所で暮らし始め、住人同士が仲良くなっていく」というイメージを抱いていたのだけど、どうも違う気がしてきた。

 どちらかというと、元から人間のネットワークがあるところに、「ぶらりと寄る場所」としてオープンシェアハウスが生まれ、そこを拠点として、元々は名前だけしか知らなかったような「友人の友人」的なつながりが強化されていくようなものなのだと思った。

 元から(数十人規模の)人間のネットワークがあることが、オープンシェアハウスを発足していく上での条件なのかもしれない。

 

シンポジウム「ひきこもりと若者のこころ」に行ってきた話

シンポジウム「ひきこもりと若者のこころ―フランスと日本

に行ってきました。

 

友人が所属してる精神保健系の勉強会のメーリスでたまたま情報が流れてきて、

タイトルが面白そうだったので申し込んだ。

 

3/11(土)の13:30から17:30までの4時間のシンポジウム。

恵比寿駅から少し歩いたところの日仏会館という場所のホールだった。

(関係ないけど、恵比寿駅の周りってすごく散歩してて気持ちいいね)

参加者はだいたい50人くらい。

参加費として一人当たり1000円取られたけど、

登壇してる先生方もすごい人だったし、元が取れるような金額ではなさそう。

 

5名の登壇者が30分ずつ話し、最後に全体セッションがある形。

「若者のこころ」という名前がついてるだけあって、登壇者に香山リカが含まれてたりする。(香山リカネトウヨの話をしてた)

 

フランスと日本で引きこもりについての共同研究をしたことがこのシンポジウムが行われたことの背景にあったらしい。

その研究では、医療者だけでなく、哲学者や人類学者、社会学者なども参加してたとのこと。

 

元々「引きこもり」は世界の中で日本で初めて社会問題として認識されたらしい。

海外でも少しずつ「引きこもり」現象が広がっているとのこと。

 

斎藤環先生は、引きこもりは「病」(統合失調症とか)ではなく「状態」(ホームレスとか不登校とか)であって、社会との相互作用で起こるものであり、原因を個人の心の問題だけに帰することはできないこと、社会関係と無関係に存在する「引きこもりの心理的異常」は抽出できないことを強調していた。 

 

中でも印象に残ったのが、鈴木国文先生と、香山リカ先生の講演。

どちらの意見も、自分に対する自身の無さと万能感がどちらも存在しており、その間の橋渡しができていないことが「引きこもり」の心理の中に見られるのではないか、ということを述べているように聞こえた。

 

鈴木国文先生は「一次性ひきこもり(精神障害が無い引きこもり)」という概念について発表していた。

一次性ひきこもりでは、1.戦わずして勝負から降りて負ける。それにより、「あの時~していれば」という形で、仮定法過去完了的万能感を維持している。2.自ら、自分のやりたいことを決めることができない。他人の期待に従ってしまう。といった特徴があるのでは、と考えていたらしい。(今では、もっと違う説明を考えているそうだけれども)

 

香山リカ先生は、ひたすらネトウヨの話だけをしてて、引きこもりと全く関係ないじゃん、と思っていたのだけど、話を聞いているうちに惹き込まれた。

”人々は、「自分はなぜうまくいかないのか」「自分が与えられるはずの地位、収入、心理的な満足感が、なぜ他の人に与えられているのか」という謎に苦しんでいる。そして、その謎を説明してくれるストーリーとして、「在日韓国人がそれらを奪っている」という意見に飛びつく”という話。

 

話が面白かったので、今回の講演のネタ本の一つになっているという

「ひきこもり」に何を見るか グローバル化する世界と孤立する個人

を購入。やっぱり引きこもりと排外主義との関係についても議論されてるんだね。

これを読んだらまた感想を書きたい。