「生ける屍の結末――「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相」感想

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読んだ。

 

一時期ネット上で有名になった、「黒子のバスケ」脅迫事件の本。

事件の経緯と、事件を起こした動機について犯人が語る。

 

やはり、犯人による最終陳述は圧巻。

「生ける屍」「努力教信者」「浮遊霊」などの独特の言葉遣いで、犯人が、自らの犯行の動機を「分析」していく。

  

 

彼自身は、すごく「分かってもらいたい」人なのだと思う。

彼自身の中に、「自分は周りからこう見られているハズだ」という硬直したイメージがある。そして、そのイメージ通りに、自分のことを見てほしいと思っているのではないだろうか。

と、いうよりも、心の表面では「誰も俺のことを理解なんてしてくれないのだ」と、他人に対して裏切られた気持ちでいっぱいなのだけれど、心の奥底では、誰かに自分のことを、生まれから、自分のやろうとしたことまで、丸ごと全部理解してほしいという願いが捨てきれないのだろう、と思った。

 だからこそ、というべきなのか。彼が自分に向ける「分析」の目は、深く、幅広い。彼の心の中に在る要素を、徹底的に分析しようとする。

 

 

さて、この本は色々な読み方ができるんだけど、

僕は「"意欲を持つこと"は自己責任なのか」を渡辺氏が世に問おうとした本だと感じた。

 

「よっひー」さんが『意欲に関する差別』という記事を書いていて、これがすごく参考になったので、引用する。

 

ameblo.jp

 

 前に言ったことのまんま繰り返しなんだけど、この世に存在する最も深刻で根の深い差別は「意欲に関する差別」だ。
 経済格差や障害の有る無しはしょうがない、という人も、意欲や志はどんな人間でも備えられるはずで、意欲や志を持たない人間を差別するのは、正義だし善だと考えている。
 もっと簡単に言うと、どんなに貧乏でも、障害があっても、過去にトラウマを抱えていても、「努力」と「意欲」だけは持てるはずで、意欲を持たず努力をしない人間だけは地を這わせ泥を啜らせてもかまわない、と、多くの人が平然と思っている。
 もちろんそんな常識は間違っている。

 

黒子のバスケ」事件の最終陳述で、渡辺氏が「努力教信者」という言葉で批判しようとしている考え方は、まさにこれだろう。彼の言う「努力教信者」とは「努力すれば報われる可能性がある」という前提を持てている人のことだ。「信者」という言葉遣いの裏には、無反省にこの前提を信じている人々への反感があるのだろう。

 渡辺氏は、「やりたいと思えることがなかった」「努力できなかった」ということに悩んでいる。彼は、最終意見陳述の冒頭で、「自分は夢なんか持っていない!まともに夢すら持てなかったんだ!」という事実を思い出した、と語る。彼が熱中できたことは、唯一、一連の黒子のバスケ事件だけだった。

 

「夢すら持てなかった」という語りは、あまり悲痛だ。

彼自身は明確にそう書いてはいないが、渡辺氏自身が、誰よりもこの「努力教信者」の考え方に毒されているように感じる。以下、引用。

「埒外の民」は「自分がどうしようもない怠け者だったから負け組になった」という自己物語を形成します。

彼は、まさに「自分はどうしようもない怠け者だ」とずっと思いながら生きてきたのではないだろうか。だからこそ、夢を持てるということ、何かに熱中できるということへの強い羨望が彼の中にはある。

新しい検事さんによる最初の取り調べで、「あなたの人生は不戦敗の人生ですね。それがつらかったのでしょう」と言われました。自分はその一言がきっかけで気が付いたのです。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったわけではないのです。この世の大多数を占める「夢を持って努力できた普通の人たち」が羨ましかったのです。自分は「夢を持って努力できた普通の人たち」の代表として、「黒子のバスケ」の作者氏を標的にしたのです。

自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功を見て、「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が嘘であり、自分は負け組ですらないという事実を突きつけられたような気がしたのです。キーワードはバスケと上智大学でした。この二つは、自分が無意識に自分ができなかった努力の象徴となっていました。

彼は、藤巻先生の「成功」を妬んではいない。藤巻先生の「部活に入ったり、中学の同級生から感化を受けてマンガを描き始めたり、ちゃんとした浪人生活を送ったり、大学でも部活に入ったり、やりたいことのために大学をさらりと退学して親元から自立してチャレンジしたり」という経歴に対しては、明確な敵意を持っている。藤巻先生は、渡辺氏の言う「努力」を実行してきた人物であり、渡辺氏は、そのような「努力」ができる状況から疎外されてきた人生だった。この格差こそ、渡辺氏が憤っているものの正体だ。彼自身、努力するかどうかが人間の価値を決める、という価値観に冒されている。だからこそ、理不尽にも、生まれついた時の環境で「努力できるかどうかが決まってしまう」ことが、彼にとっては許せないのだろう。

 

さて、渡辺氏の憤りのエネルギーは、大きく2つの方向に向かう。

1つは、「努力教」の価値観を批判すること。もう1つは、自分を「努力」できない状況に追い込んだ家庭環境や社会を批判することだ。

個人的には前者の方向性の方がよほど「救い」はあるだろうと思うんだけど(要するに、努力できたかどうか以外にも人間の価値はある、と考え直せればいいわけだ)、彼の語りは、後者の方向性を深める形に進んでいった。

 

 彼の語り方は、どこか淡々としている。彼は自分のことを他人事のような突き放した口調で語るのだけど、使われる単語一つ一つは、強く彼の世界観が滲み出している。このアンバランスさが、彼の文章をインパクトのある文章にしていると思う。

 で、彼はこの第三者的な語り口で、「環境が自分をこのような人間にしていくまで」の過程を語っていく。

 彼は、「社会的存在⇔生ける屍」「努力教信者⇔埒外の民」「キズナマン⇔浮遊霊」という3組の対義語と、「生霊」という言葉を定義する。彼のロジックを要約すると、

・家庭環境のせいで、自分は「生ける屍」になってしまった。

・「生ける屍」である自分が「埒外の民」になってしまうのは必然

・「生ける屍」である自分は、安心を持っておらず、またその特殊な家庭環境のために「浮遊霊」になってしまった。

・「浮遊霊」である自分が、社会とつながるために強引に仮設した"3本の糸"が切られてしまった。この時「埒外の民」でもある自分は、偶然が重なって「生霊」になってしまった。

ということになる。

ポイントは、どの流れも、彼の意志の介在しない出来事として描かれていることだ。この経緯は、どれも「~なってしまう」という口調で語られているように思える。

 

この本の帯に書かれている感想に、「どこで何を間違えたのか。どうしようもなかったのか」というコメントが書かれているが、このような感想を覚えるのは、彼の一つ一つのロジックの説得力だけでなく、彼のこの語り口によるものが大きいと思う。彼の語りがどこか「客観的」に自分を見つめ直しているものであるだけに、渡辺氏の陳述を読むと、私たちは、自分も同じ立場に置かれていたら、きっと同じ道をたどっていたのではないかと思わされる。私たちは、渡辺氏の「人生」に深く同情してしまうのだ。

 

 

一旦書き疲れたので、ここで今日は終わり。

また書く。