今さら「輪るピングドラム」を観た感想徒然 ー"物語"から"応答"へー

輪るピングドラムの感想を徒然なるままに書く。
ネタバレありなので観てない方はお帰りください。

 

 

大学の同期から勧められていて、前から気になってはいた。

最近お気に入りのOculus Goをつけ、ベッドに寝転んでAmazon Prime Videoのアニメ一覧をザッピングしていたところ、Prime会員向けに公開されているのを発見した。
休憩がてらに1話だけ見てみるかと「今すぐ観る」をクリックし、そのままの勢いで24話まで全部観てしまった。

 

今は最終話を見終えた直後で、大泣きし、呆然としている。

なぜ公開年に観なかったのか、と反省すると共に、でもこのタイミングで観たからこそ、これだけこの作品について考えることができたのだろう、とも思う。

それだけ、この作品のテーマは、今の自分の問題意識にヒットしていた。

 

革命から生存戦略へ。

生き残るために、たとえ血縁のつながりがなくても、「家族」を作ること。

家族になるために、運命によって与えられた呪いを共有し、分かち合っていくこと。

 

 

 

1995年のオウムによる「社会変革」は失敗した。2010年代の私たちは、「社会に立ち向かうことで、自分たちが生きやすい社会に変えることができる」という物語をもはや信じていない。

代わりに、私たちが関心を持つようになったのは、社会の中に、小さくても、ささやかでも、自分たちが生き残ることができる居場所を確保することだ。 それが、私たちの「生存戦略」だ。

 

本作では(疑似家族も含めた)「家族」がその場所として描かれている。

ゲンロン0で、東浩紀が「観光客」の連帯原理の有力な候補として「家族」を挙げていたけれど、本作の主人公の家族は、まさにこのような連帯の一例を描いたものなのでは?と個人的には感じた。

 

20話「選んでくれてありがとう」の陽毬の「この世界は選ばれるか選ばれないか、選ばれないことは死ぬこと」という台詞は個人的にダメージが大きかった。

もし現実の知り合いにそんなこと言われたら、「考えすぎじゃない?」と返す。しかし、陽毬は13歳になった時点でも、素直にそう思って生きているのではないか。

彼女があれだけ家族を大事にしているのは、自分が家族の一員として「選ばれた」ことで命を救われたからで、彼女のあの家族に対する献身的なまでの優しさを支えているのは、「選ばれないことは死ぬことだ」という信念なのではないか。陽毬の家族愛を僕は美しいと感じてしまうし、そうなると、「選ばれないことは死ぬことだ」という彼女の信念も批判しきなれなくなってしまった。

物心つく前の子供にとって、「選ばれないことは死ぬこと」という言葉は、彼らが生きている現実そのものなのかもしれない。陽毬にとって、現実とは"こどもブロイラー"と隣合わせの世界だ。

タイトルの「選んでくれてありがとう」という言葉を見ると涙が出そうになる。陽毬の美しい家族愛は晶馬や冠葉の生きる希望だったに違いない。だが、陽毬が晶馬に家族として選ばれたのはある種の偶然であり、その裏にはたくさんの選ばれなかった子供と"こどもブロイラー"の存在がある。

陽毬ほどその現実を達観して受け入れている3歳児は普通いないと思うけれど、それでも、あの世界から"こどもブロイラー"が失くなった時、陽毬、晶馬、冠葉の三人は家族でいられるのだろうか・・・?

 

 

メルロ・ポンティによれば、私たちは自由意志を持つ以前に、「応答する存在」として存在している。違う言い方をすれば、能動的な存在ではなく、中動態的な存在として生きている。

陽毬が持つ家族愛も、冠葉が持つ陽毬への愛も、自由意志による能動的な愛というよりも、自分に愛を与えてくれた人々への「応答」ではないのか? 言うなれば、陽毬の"家族への気づかい"は、家族として"選ばれた"ことをきっかけとする一連の行為であり、本作の言葉を借りるのであれば、「運命」なのだ。

大きな物語の失われた世界において、人間の行為が意味を持つのは、それが何らかの呼びかけに対する応答だからだ(そうじゃない例もあると思うけど)。

罪に対する罰。愛に対する感謝。愛されなかったことに対する復讐。

それは「運命」として知覚される。わざわざ「運命」なんて大仰な言葉を使うのは、大きな物語を失った世界において、プリミティブな意味間の関連を誇張しないと物語として成立しないという事でもあるだろうし、そういう単純な応答がもっとも説得力を持つ時代になっているということもあるだろう。ただ、この作品では、「愛された」「愛されなかった」という過去に対するシンプルな応答性こそが、主要な登場人物たちの基本的な行動原理になっている。そこから逃れられるキャラは一握りしかいなかった。

 

1995年以降、僕らは、自分と無関係なところで作られた「物語」に説得力を感じられなくなった。そして、自分の身に起こったことへの「応答」としてしか、自分の行為に意味を持たせられない時代に生きているのではないのか。

 

 

その意味でいうと、晶馬と苹果の物語が一番印象に残った。

苹果は物語の前半と後半で、「応答」する対象が全く異なっている。苹果は想像力が豊かで、妄想じみた物語を自分で構築し、それにしたがってパワフルに邁進する。

前半では、自分を愛してくれなかった家族に対して、家族の愛を掴み取るために、「運命」を設定し、それを実現しようとする。しかし、後半では、ほとんど家族との絡みは出てこ図、自分を守ってくれた晶馬に対する関わりが登場シーンのほとんどを占める。

「運命の乗り換え」という言葉について考える時、真っ先に浮かぶのは苹果のことだ。晶馬にとって、苹果は理解不能な「オカルトサイコ娘」であったにも関わらず、晶馬は身を呈して苹果をかばった。あの時、苹果は運命をねじ曲げられたのだ。

助けられたあと、苹果が晶馬に八つ当たり(?)するシーンがあるが、苹果にとって日記が示す「運命」は救われるための道しるべだった。晶馬は苹果が信じていた救いの物語をぶちこわし、その上で苹果の新しい「応答性」を引き出したのだ。

 

晶馬は、苹果に振り回されてはいるが、苹果の要望に唯々諾々と従うだけの存在ではなかった。苹果自身にとってよくないと思ったことははっきりと言うし、いざという時には自分の身を犠牲にしてでも苹果を守ることを行為として証明している。

しばしば看護や臨床心理でも言われることだが、相手の顕在的な「ニーズ」に答えるだけでは、対人支援は成立しない。「相手以上に相手のことを考えていること」を示すことで、初めて「あなたの人生をもっとよくするために協力しましょう」という信頼関係を築くことができる。

 

 

いきなり別作品の話を挟んで申し訳ないが、アニメ「Re:ゼロ」のレムの告白シーンの話がしたい。(見てない人は次の*まで飛ばしてください)

 

僕はあのシーンがめちゃめちゃ好きなのだが、あの告白シーンの真髄は、度重なる失敗で絶望に陥った「自分のことは、自分が一番よく分かってる」って叫ぶスバルの意見をレムが「レムが見ているスバルくんのことを、スバルくんがどれだけ知っているんですか?」と否定するところだと思っている。

 

「自分から見たあなた」を押し付けることは、ポリティカルコレクト的に非常にリスクのある行為だ。例えば、女の子しか好きになれない娘に対して、母親が「大丈夫、私には分かってるわ、あなたは本当は●●な男の人が好きなのよ」などと発言して、娘の意見を無視しようとすれば、当然批判の対象に合うだろう。

 

だが、あの「スバルくんの自己像の否定」こそがきっかけとなって、無力感に苛まれていたスバルくんはは復活する。そのあとのスバルくんの行為は、レムからの期待によって動機づけられている。

 

 

特定の対象との「応答」(例えば、自分を愛してくれなかった世界に対する復讐とか)の中に囚われてしまった時、そこから連れ出してくれるのは、いつだって、個人の自由の領域にまで「踏み込んで」くる人間なのかもしれない。その出会いは、ゲンロン0で出てくる「誤配」のような、ルールから逸脱した偶然のような出会いで、かつどこか必然的なものなのによってもたらされる。

 

物心もつかない子供の「生存戦略」と、すでに自分で考えることができる青年・中年の「生存戦略」は異なるだろう。

子供にとっては、自分を育ててくれる人に選ばれることが必須かもしれないが、経済的に自立した社会人にとって大事な「生存戦略」は、必ずしも「家族」ではないと思う。

大事なことは「応答する存在」として生きられる場所を確保することではないのか。「愛」という解しか認めないのは、あまりに視野が狭い。愛は大事かもしれないが、もっと広い「応答性」の選択肢の中から、自らが生きる意味を得ていくことではないか、と思う。

(大女優になっても、桃果に執着しているゆりは、ちょっと大人としてどうなのか、と思う)

 

たしかに、古典的な理想の家庭において、親から与えられるとされる無償の愛は、その「応答」が始まるきっかけになる。しかし、親が、社会が自分たちに与えてくれたものへの返礼として、社会に奉公し、一生を終える、というのは現代のモチベーション設計として可能なのか。

 

人間は「応答する存在」だという。だとすれば、私たちの行為は、実はなんらかの働きかけにたいする「応答」でしかない。それゆえ、私たちの人生は、自分が生まれた時に贈られたものによって運命付けられている。

しかし、親の愛を獲得するため、運命に従い、多蕗先生を襲おうとする苹果を呼びとめたのは、他人である晶馬だった。作中ではほぼ無視されているけれど、本当は、私たちは、応答する対象を選ぶ事ができる。自分が誰の「呼びかけ」に応えるのか、選択する自由を持っている。自分を選んでくれる相手は限られているかもしれないけれど、確かに存在する。ちゃんと耳を傾けさえすれば、私たちに「呼びかけて」くれる人は、現実でもネット上でもたくさんいる時代だと思う。

そして、私たちは、ゆりと多蕗先生が桃果の喪失を分かち合ったように、他人の呪いや負債を分かち合うこともできる。画面の奥の陽毬の境遇に私がうちひしがれてしまったように、他人のつらさに共感することもできる。親との関係に縛られずとも、「応答先」は、他の対象との関係に広げていけるのではないか。

 

 

別に輪るピングドラム自体がそういうテーマを持っていた訳ではないと思うのだけど、見終わってから、ずっと「応答する存在」として生きていくことについて考えている。それがこの時代の世界観なんじゃないのか、という気がしているのだ。